スイーツ男子!?織田信長が愛した「干し柿」と「金平糖」の意外な真実!〜天下人の勝負メシ「湯漬け」の秘密〜

織田信長

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」――。

戦国時代のカリスマ、織田信長(おだ のぶなが、1534年 – 1582年)と聞くと、あなたはどんなイメージを抱きますか?

冷酷非情、合理的、そして何よりも革新的。桶狭間の戦いや長篠の戦いで旧態依然とした戦術を打ち破り、「天下布武」を掲げて日本統一を目指した風雲児1。その強烈な個性と、本能寺の変という劇的な最期は、今なお多くの人を惹きつけてやみません。

そんな信長ですが、実は彼の食生活には、「え、マジで!?」と驚くような意外な一面が隠されています。

豪快な武将のイメージとは裏腹に、信長はなんと大の「甘党」だったのです!

この記事では、信長が愛した「干し柿」や、南蛮貿易で手に入れた「金平糖」といったスイーツから、せっかちな彼が戦場でかき込んだ「勝負メシ」まで、天下人の知られざる食の秘密を深掘りします。信長の食の好みを知れば、彼の人間性や、当時の文化の最先端が見えてくるはずです。

意外な一面:信長は「甘党」だった?

「うつけ者」と呼ばれた若き日から、冷酷非情なイメージが強い信長ですが、その食生活には意外な一面がありました。それは、信長が非常に「甘党」であったという点です。

戦国武将の食事といえば、質実剛健なイメージがありますが、信長は甘いものを好み、特に干し柿を大好物としていたことが記録に残っています。

干し柿

地元の名産だったほしがきは大のお気に入り。人目を気にせず、くり、かきなどあまい食べ物にかぶりついていた様子も当時の本に記されています。

干し柿は、当時の貴重な甘味料であり、保存食としても優れていました。信長がこれを好んだのは、単に甘いものが好きだっただけでなく、栄養価が高く、手軽にエネルギー補給ができるという実用的な側面もあったと考えられます。

南蛮菓子との出会い:金平糖とバナナ

信長の甘党ぶりを示すもう一つのエピソードが、南蛮菓子への傾倒です。

永禄12年(1569年)、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが信長に謁見した際、さまざまな南蛮品を献上しました。その中に、金平糖(コンペイトウ)や有平糖(あるへいとう)といった砂糖菓子が含まれていました。

特に金平糖は、透明なフラスコに入った美しい砂糖菓子であり、信長はこれを見てたいそう喜び、その珍しさと甘さに魅了されたと伝えられています。当時の日本では、砂糖は非常に貴重で高価なものであり、金平糖は最先端のステータスシンボルでもありました。

さらに驚くべきことに、フロイスが献上した南蛮品の中には、バナナも含まれていたという記録もあります。信長は、日本の食文化にはなかったこれらの新しい味覚を積極的に受け入れ、楽しんでいたのです。これは、新しい文化や技術を恐れず取り入れるという、信長の革新的な性格を象徴するエピソードと言えるでしょう。

金平糖とバナナ

信長の勝負メシ「焼き味噌湯漬け」

信長の食生活を語る上で欠かせないのが、「湯漬け(ゆづけ)」です。これは、現代でいうところのお茶漬けのようなもので、ご飯に熱い湯をかけて食べる簡素な食事です。

信長は非常にせっかちな性格で、食事に時間をかけることを嫌ったため、この湯漬けを常食としていました。戦の合間や移動中など、時間を惜しむ信長にとって、湯漬けは最適なファストフードだったのです。

そして、この湯漬けと一緒に信長が好んで食べていたのが、焼き味噌です。

焼きみそ

彼が好んだ「味が濃い」料理としては、焼き味噌が挙げられます。ネギやショウガ、酒などを加えて練った味噌を火で炙り、湯漬け(今で言うお茶漬けのような)と一緒に食べていました。

この「焼き味噌湯漬け」は、戦場や移動の多い日々の中で、短時間で塩分とエネルギーを補給できる信長にとっての「勝負メシ」だったと言えます。濃い味付けを好んだ信長にとって、塩辛い焼き味噌は、湯漬けのあっさりとした味とのコントラストも楽しめたのかもしれません。

信長が育った尾張国は、愛知県を中心とする豆味噌の文化圏です。同じ豆味噌文化圏で育った豊臣秀吉や徳川家康も焼き味噌を好んだようですが、信長は特にすりごまを加えた焼き味噌が好物だったという説もあります。

好物特徴・エピソード文化的背景
干し柿大好物で、人目を気にせず食べていたほどの甘党。当時の貴重な甘味料・保存食。
金平糖フロイスから献上され、その美しさと甘さに魅了された。南蛮貿易による最先端の砂糖菓子。
焼き味噌濃い味付けを好み、湯漬けと一緒に常食した「勝負メシ」。尾張の豆味噌文化圏で育まれた、塩分補給に最適な一品。
湯漬けせっかちな信長が時間をかけずに食べるための簡素な食事。戦国時代のファストフード。
バナナフロイスから献上された南蛮品の一つ。日本にはなかった新しい果物。

食と文化:信長の「茶の湯」と「もてなし」

信長は、単に好物を楽しむだけでなく、食や文化を政治や外交に利用するという側面も持っていました。その最たるものが「茶の湯」です。

茶の湯

信長は、茶の湯を単なる趣味としてではなく、家臣の統制や外交の手段として利用しました。特に、名物と呼ばれる貴重な茶器を家臣に与えることで、その功績を認め、身分秩序を明確にしました。これは「茶の湯政道」とも呼ばれ、信長独自の統治手法でした。

また、信長は客人を招いた際のもてなしにも、新しいものを取り入れる革新性を見せています。京風の上品な薄味の料理を「水臭い(味が薄い)」と評し、料理人を罰したというエピソードは、信長の濃い味付けを好むという明確な食の嗜好を示すと同時に、自分の価値観を押し通す強烈な個性を物語っています。

さらに、家臣への褒美として、当時の日本では貴重だった肉を与えることがあったとされています。これは、家臣の士気を高めるとともに、従来の仏教的な価値観にとらわれない信長の新しい時代のリーダーとしての姿勢を示すものでした。

現代に伝わる信長の食へのこだわり

日本統一という壮大な目標に向かって突き進んだ織田信長。その豪快で革新的なイメージの裏には、甘いものを愛し、濃い味を好むという、人間味あふれる食の好みがありました。

彼の好んだ「干し柿」や「焼き味噌湯漬け」は、戦国という激動の時代を生き抜くための実用性と、新しい文化への好奇心が融合した結果と言えるでしょう。

信長の食に関するエピソードは、彼が単なる武将ではなく、時代の変化を敏感に察知し、新しい価値観を積極的に取り入れた革新者であったことを教えてくれます。彼の食の嗜好を知ることは、戦国時代の文化や、信長という人物の多面的な魅力を理解する上で、非常に興味深い手がかりとなるのです。