岩倉具視(いわくら ともみ、1825〜1883)は、幕末から明治初期に活躍した日本の政治家です。公家出身でありながら、明治維新では表舞台に立つ西郷隆盛や大久保利通ら「維新の三傑」を陰で支えた立役者として重要な役割を果たしました。江戸時代末期、天皇を中心とした新しい政府を樹立するために奔走し、明治政府では要職について日本の近代化に貢献しています。特に、不平等条約の改正交渉や欧米視察のために派遣された岩倉使節団の団長を務めたことで知られています。旧五百円札の肖像にも選ばれたほど、その功績は大きなものです。
年代別・岩倉具視の人生ターニングポイント7選
- 幼少期・教育(1820年代) – 文政8年(1825年)京都で下級公家の家に生まれ、幼名を周丸(かねまる)といいました。13歳で岩倉具慶の養子となり「具視」と改名します。幼い頃から破天荒で、友人に講義をさぼって将棋をしようと持ちかけたエピソードもあります。
- 公家時代(1850年代) – 天皇に仕える侍従となり、朝廷で頭角を現し始めます。孝明天皇の信任を得て、公家と幕府の融和を図る公武合体政策を推進。皇女和宮と将軍徳川家茂の縁組(和宮降嫁)を実現させ、朝廷と江戸幕府の関係調整に尽力しました。
- 政治活動の開始(1860年代前半) – 和宮降嫁を進めたことで急進的な尊王攘夷派からは「幕府寄り」とみなされ命を狙われます。文久2年(1862年)、身の危険を感じた岩倉は官職を辞して出家し、京都を離れて洛北の岩倉村に隠棲しました。この幽棲中に坂本龍馬や中岡慎太郎ら倒幕志士とも交流し、密かに政治工作を続けます。
- 倒幕運動への関与(1860年代後半) – 禁門の変(1864年)後、岩倉の嫌疑が晴れて周囲の志士たちが再び彼のもとに集まりました。情勢の変化に応じて岩倉も方針を倒幕へと転換し、薩摩藩の大久保利通らと手を組んで幕府打倒に動きます。慶応3年(1867年)には徳川慶喜の大政奉還後、朝廷中心の新政府樹立のため小御所会議で王政復古を宣言し、幕府に政権を返上させるシナリオを成功させました。
- 明治政府での活躍(1868〜1870年代) – 明治維新後、岩倉は新政府の要人として活躍します。版籍奉還や廃藩置県といった近代国家の礎を築く改革に携わり、右大臣に就任しました。また、欧米式の近代産業を興す殖産興業政策を支え、日本の近代化行政をリードしました。
- 岩倉使節団の派遣(1871〜1873年) – 明治4年(1871年)、岩倉は特命全権大使(団長)として政府代表団を率い、アメリカからヨーロッパへ約2年にわたる岩倉使節団を派遣します。目的は不平等条約改正の予備交渉と西洋文明の視察でした。各国で政治制度や産業を学び、日本の近代化に必要な知見を持ち帰りました。帰国後、征韓論争では欧米視察の経験から慎重論を唱え、無謀な外征を思い留まらせています。
- 晩年とその影響(1874〜1883年) – 明治7年(1874年)には征韓論に不満を持つ士族らによる暗殺未遂事件(赤坂喰違の変)に遭いましたが九死に一生を得ます。その後も京都の復興に尽力し、明治14年(1881年)には古都の文化財保存団体「保勝会」を設立するなど伝統の保護にも貢献しました。明治16年(1883年)、喉の病(咽頭癌)のため57歳で亡くなります。亡くなる直前まで古都保存に情熱を注いだ岩倉具視の志は、その後の京都市の発展にも影響を与えました。
出身
岩倉具視は京都出身の公家です。生家は権中納言・堀河康親の家系ですが、決して高い家格ではなく、経済的にも恵まれた身分ではありませんでした。天保9年(1838年)に岩倉家(岩倉具慶)の養子となったことで「岩倉」を名乗ります。岩倉家も公家の中では下級の家柄で貧しかったため、具視は若い頃から向上心を燃やし、自ら道を切り拓いていく必要がありました。京都・岩倉村で過ごした経験が彼の名字の由来であり、その出自が後の政治活動にも影響を与えています。
趣味・特技
岩倉具視は型破りな性格で知られ、若い頃から公家らしからぬ行動が目立ちました。雅な和歌や蹴鞠よりも、将棋や博打といった庶民的な遊びに興じたと伝わります。実際、13歳のときには漢学の塾で同級生に「講義をさぼって将棋で勝負しよう」と持ちかけ、「古典の字句を調べるより将棋で知略を磨いた方がよいじゃないか」と豪語した逸話が残っています。学問より実戦的な知恵を重んじる一面がうかがえます。

また、度胸の据わった直言癖も彼の特技とも言えるでしょう。14歳で「具視」と改名した際には、与えられた名が画数の多い難しい字だったため「もっと字画の少ない書きやすい字に変えてほしい」と養父に直談判しています。遠回しな物言いが多い公家社会で、少年時代からズバッと物を言う性格だったのです。
経済的に苦しかった幕末期には、自宅を賭博場にするという型破りな方法で生活費を稼いだとも言われます。博徒に屋敷を貸して賭場を開かせ、その上がりで生計を立てていたという説もあるほどです。そうした環境に身を置いたことで勝負勘が磨かれ、多少のことでは動じない図太さが培われたのかもしれません。岩倉具視の趣味嗜好や大胆な言動は、一見風変わりですが、それらが彼の実践的な知恵や交渉術といった「特技」に通じ、波乱の時代を生き抜く原動力となりました。
友人・ライバル
幕末から明治にかけて、岩倉具視は多くの志士や政治家と交流しました。特に薩摩藩出身の大久保利通とは盟友関係で、倒幕から明治政府の運営まで二人三脚で協力しています。岩倉が朝廷から遠ざけられていた時期には、坂本龍馬や西郷隆盛、中岡慎太郎らが岩倉を訪ねて意見を交わした記録もあります。西郷や大久保といった薩摩の志士たちとは、倒幕運動で志を同じくする仲間でした。岩倉は陰で彼らを支え、情報交換や調整役となることで倒幕の成功に寄与したのです。
しかし明治政府発足後、西郷隆盛とは次第に路線の違いが生じました。岩倉が欧米視察から帰国すると、西郷らは朝鮮への出兵(征韓論)を主張しますが、岩倉はこれに反対します。意見が真っ向から対立した結果、西郷は政府を去り、後に西南戦争を起こす道をたどりました。征韓論を巡る亀裂は深く、一部の不平士族たちは岩倉を恨み、明治7年(1874年)には暗殺未遂事件(赤坂喰違の変)まで起こしています。幸い岩倉は難を逃れましたが、西郷隆盛は事実上岩倉にとって盟友からライバルへと変わっていきました。このように、岩倉具視の人脈には協力者だけでなく、維新後の路線対立から生まれた敵対者も存在したのです。とはいえ、大久保利通や長州出身の木戸孝允(桂小五郎)、さらには後進の伊藤博文らとは終生良好な関係を保ち、新国家の基盤づくりに力を合わせました。友と敵、様々な人々との関わりの中で、岩倉具視は調整役・黒幕としてその手腕を発揮したのです。
名言
成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈(あに)後世に恥じんや
これは慶応3年の大政奉還から王政復古に至る緊迫した時期に発せられたとされています。漢文調ですが、その意味は現代語に直すと「物事の成敗(成功や失敗)は天命に任せるべきもの、生きるか死ぬかも運命次第。たとえ失敗して死ぬことになっても、決して後世に恥じることはない」という趣旨です。要するに、自分の身に何が起ころうとも天に委ねる覚悟で事に当たれ、志半ばで倒れてもそれは恥ではない、という大胆な心得を示しています。
この名言には、岩倉具視の強い覚悟と信念が表れています。幕末の動乱期、倒幕という一大事業に挑む志士たちは常に死と隣り合わせでした。岩倉自身も命を狙われる危険を承知で陰ながら倒幕計画を進めていたのです。そんな中で彼は「結果がどうなろうと天の意思に任せる。失敗して自分が命を落としても歴史に恥じることはない」と自らを奮い立たせ、周囲にも覚悟を促したのでしょう。この言葉は現代にも通じる普遍的な教訓として、座右の銘にする人もいるほどです。挑戦において肝心なのは結果よりも志と努力であり、たとえ失敗してもそれを恥じる必要はない——岩倉具視の名言は、私たちにそう教えてくれているのです。
好きな食べ物:日本酒
豪胆な政治家であった岩倉具視ですが、実は大の日本酒好きとしても知られます。酒と言えば当然のように日本酒を嗜み、当時流行し始めていた洋酒やビールにもあまり目もくれなかったようです。例えば、岩倉使節団で渡米欧した際、他の使節団員が洋装・断髪だった中でただ一人ちょんまげに和装という生粋の和風スタイルを貫いたエピソードがあります。滞在先ではビール工場を視察し、試飲の場で「この強いビールが一番うまい」と笑顔で感想を述べたとも伝わります。とはいえ、それはあくまで海外での好奇心からの発言。日本に戻ればやはり行きつけは馴染みの日本酒だったと言われています。

また、岩倉は嗜好品にも和へのこだわりを見せています。洋行帰りにも関わらず、タバコは終始和種のキセル煙草派で、西洋の葉巻や紙巻きタバコは口にしませんでした。食べ物も肉より魚や野菜を好み、特に京都の伝統的な料理を愛したようです。こうした逸話からは、岩倉具視が日本の風土や伝統的な味覚を深く愛していたことが伺えます。日本酒を傾けながら故郷・京都の味を楽しむひとときが、忙しい政務の合間の何よりの息抜きだったのかもしれません。維新の立役者であると同時に、生粋の日本人らしい食文化の嗜みを持った人物──それが岩倉具視の意外な素顔です。
さいごに:偉人の人生に学ぶこと
岩倉具視の波瀾万丈の人生からは、現代を生きる私たちも多くのことを学べます。彼は身分の低さや逆境にひるむことなく、柔軟に時代の変化に対応しながら自分の信じる道を突き進みました。状況に応じて公武合体から倒幕へと方針転換し、明治国家の礎を築いた姿は「適応力と決断力」の大切さを教えてくれます。また、「成敗は天なり…」の名言に象徴されるように、失敗を恐れず大胆に挑戦する勇気も岩倉の生涯から学べる教訓でしょう。自身の利益より国家の未来を優先し、周囲の人々と協力して大きな改革を成し遂げた岩倉具視。その生き様は、困難に直面しても志を曲げず、伝統を大事にしつつ新しい挑戦を恐れないことの大切さを今に伝えています。初心者の方もぜひ岩倉具視という偉人の人生に触れ、その熱い志と行動力から何かを感じ取ってみてください。歴史の偉人の歩みは、きっと私たちの背中を押してくれるはずです。