島津斉彬とは?その功績と人となり大好物を徹底解説!

島津斉彬

江戸時代後期の薩摩藩28代当主として活躍した島津斉彬(しまづ なりあきら)は、日本の近代化を先んじて推進した革新的な人物です。藩内に反射炉やガラス工場をはじめとする先進的な施設を整え、西洋の学問・技術の導入を積極的に行いました。その結果、薩摩は「集成館事業」と呼ばれる製鉄や造船などの産業振興を進め、日本における産業革命の先駆けとなりました。さらに、海外の情勢にも早くから目を向け、異国の情報や技術を取り入れる重要性を理解していた点が特徴です。その行動力と知識は後の明治維新に大きな影響を与え、多くの志士たちが彼の思想を受け継ぐことになりました。特に島津斉彬が打ち立てた国力強化のビジョンは、後に西郷隆盛や大久保利通といった人物へと引き継がれ、新時代の礎ともなったのです。

人生のターニングポイント 7つ

  1. 【1. 幼少期】
    1809年に誕生した島津斉彬は、幼い頃から学問好きで知られ、父である島津斉興の方針もあって早くから藩主の教養を身につけ始めました。
  2. 【2. 青年期】
    海外情勢に関心を持ち、西洋の文物を学ぶことがのちの政策に大きく影響。自ら学問に励む姿勢が周囲の信頼を得る基盤となります。
  3. 【3. 薩摩藩家老時代】
    藩の財政改革や軍備の強化を進め、実践的に政治を学んだ時期です。ここで築いた人脈や組織運営の手腕が、後の藩主就任に備える糧となりました。
  4. 【4. 藩主就任】
    斉彬が正式に薩摩藩の当主となったことで、集成館事業など新規事業を一気に推し進めます。ここから薩摩の近代化は急速に加速しました。
  5. 【5. 黒砂糖貿易の推進】
    安定した収入源として黒砂糖の生産・取引を拡大したことは、藩の財政を潤す重要な転機となり、外からの技術導入にもつながりました。
  6. 【6. 幕府との交渉】
    将軍継嗣問題などで幕政に関与し、江戸幕府と協議を重ねることで中央政界にも影響力を及ぼすようになります。
  7. 【7. 晩年】
    健康を損ねつつも、西洋式造船や砲術の改良など改革の手を緩めず、薩摩の未来を見据えて行動しました。その歩みが歴史に刻まれています。

出身

島津斉彬の出身地は、現在の鹿児島県にあたる薩摩藩領です。江戸時代を通じて外海との交流が制限されていた日本の中でも、南方に位置する薩摩は比較的海外情報が入りやすい地でした。その風土で育ち、斉彬は若くして世界の広さを意識するようになったと伝えられています。
また、火山の恵みや海の幸が豊富な土地柄は、斉彬の大胆さや先見性を育む素地になったともいわれます。大自然に囲まれた環境下で、彼は常に新しい知識を求め続けました。

趣味・特技

島津斉彬は、単に政治や軍備に関心を持っていただけではなく、多方面にわたる好奇心旺盛な人物でした。特に技術や工芸への興味は強く、薩摩切子と呼ばれるガラス工芸の発展にも大いに貢献したとされています。

薩摩切子

また、蘭学や天文学といった学問分野にも強い興味を示し、海外の書物を取り寄せては研究に没頭。最新の知識をいち早く吸収して、藩の実情に即した形で活用しようと努めました。
彼の特技の一つとして挙げられるのは、具体的な発明や設計への関与です。反射炉の設計図や大砲の製造工程など、当時としては画期的な工夫を積極的に取り入れ、自ら指揮を執ることもありました。

発明

さらに、趣味と実益を兼ねる形で蒸気船や電信機といった最新技術にも目を向け、試作や改良案を模索した記録が残っています。こうした探求心が、薩摩を当時の日本で最先端の地へと押し上げたのです。
このように趣味や特技としての学問探究が、結果的に領国経営や国家の進路を左右する大きな要因になった点が、島津斉彬という人物のユニークさを示しています。
当時の常識を超える多様な分野への挑戦が、彼を歴史に名を残す革新者へと導いたといえるでしょう。

友人・ライバル

島津斉彬の周囲には、後の日本を動かす重要人物が多く集いました。彼との友情や対立関係が、斉彬の政策や思想に影響を与えたといわれています。ここでは代表的な友人・ライバルを挙げてみましょう。

  • 西郷隆盛:若い頃より斉彬の改革思想に大きな影響を受け、後の明治維新で中心的な役割を果たした人物。師弟関係にも近い絆を築きながら、実務面で斉彬を支えました。
  • 大久保利通:西郷とともに斉彬の薩摩改革を支え、後に明治政府の礎を築いた政治家。冷静な判断力で政策をまとめ上げ、斉彬の先進的な施策を実行に移す実務能力が高かったことで知られています。
  • 島津久光:同じ薩摩島津家の一員であり、後に藩主の実質的権限を握る立場となった人物。斉彬との意見対立もありましたが、その緊張関係が藩の内部改革をさらに進める原動力にもなったといわれています。

名言

善行とても前後をよく考えなければ難を呼ぶ。時が熟するのを待たねばならない。今、第一に求められているのは堪忍の二字である

この言葉が示すのは、いくら善い行いでも時機や状況を誤ると、かえって大きな問題を引き起こす可能性があるということです。同時に、焦らずに適切なタイミングを見計らう「堪忍」の重要性を強調しています。
斉彬自身、さまざまな改革を短期間で実行してきましたが、その裏には周囲の状況を見極め、反対勢力との衝突を最小限に抑えるバランス感覚が必要だったと考えられます。
表面的には大胆な政策を次々と打ち出した印象が強い斉彬ですが、名言からは深い洞察力と慎重さが垣間見えます。まさに「善行であれ、正しく時を待つこと」が成功の鍵であると説いているのです。
この考え方は現代にも通じるものがあり、組織運営や人間関係においても「時期」と「堪忍」がいかに大切かを示唆しています。急ぎすぎず、慎重になりすぎず、最適な行動を見極める姿勢は、多くの人にとって学びとなるでしょう。

好きな食べ物

島津斉彬は、政治や軍事のイメージが強い一方で、甘いものにも目がなかったと伝わっています。特に有名なのが、鹿児島の銘菓である「かるかん」や、美しい層模様が特徴的な「杢目(もくめ)かん」です。

かるかん

かるかんは山芋と米粉、砂糖を使ってふんわりと仕上げた菓子で、その素朴ながらも上品な甘みが特徴。一方の杢目かんは、寒天を何層にも重ね合わせて作られた美しい外見と、さっぱりした甘さが魅力です。
逸話としては、斉彬が家臣からの献上品としてかるかんを頬張り、その製法にまで強い関心を示したと語り伝えられています。菓子の技術革新にも興味を持ち、さらなる改良を指示したという話も残っているほどです。
甘いものを好んだ一方で、体力づくりや健康管理にも意識を向けていたというエピソードもあります。そのため、甘味を摂りすぎないように配慮しつつ、好きな菓子を楽しんでいたと推測されています。
このように政治家や軍人としての厳格な面だけでなく、甘いものを通じて人間らしい一面も見せるところが、島津斉彬の魅力といえるのではないでしょうか。

さいごに 偉人の人生に学ぶこと

島津斉彬の人生は、先見の明と行動力、そして適切なタイミングを見極める慎重さがそろってこそ、社会を動かす大きな力となることを教えてくれます。古い慣習にとらわれず、必要と判断すれば新しい技術や制度を積極的に採り入れた点は、現代にも通じる学びでしょう。
私たちも日々の暮らしや仕事の中で、柔軟な思考と行動をとりつつ、周囲との調和や時機を見誤らない姿勢を大切にしたいものです。斉彬の足跡は、現代社会でも十分に活かせるヒントを与えてくれます。
明治維新を支えた人材を多く育てた彼の指導力は、今なお学問やビジネスの世界で大きな示唆を与えています。