徳川家重とは?あまり知られない第九代将軍の人物像と大好物!

徳川家重

徳川家重(とくがわ いえしげ)は、江戸幕府の第九代将軍として知られています。父は八代将軍徳川吉宗で、歴史上では「あまり目立たない将軍」として扱われがちですが、実際には幕府の基盤を維持し、政治の安定を図る重要な役割を担いました。身体が弱かったとされ、口調がはっきりしなかったという記録もありますが、その分、周囲の人々と協力しながら幕政を支え続けた人物です。
就任当初は発話や体調面で苦労することもあったようですが、周到に人材を登用し、必要な施策を周囲と相談しながら決定したと言われます。これらの点から、徳川家重はただ単に父の後を継いだだけではなく、新たな時代への橋渡し役として幕府の足場を守った存在といえるでしょう。

人生のターニングポイント 7つ

徳川家重の人生には、いくつかの重要な節目が存在しました。時代の流れや家内の環境など多くの要因が重なり合いながらも、次第に将軍としての道を歩むことになります。ここでは、年代別に見た7つのターニングポイントをご紹介します。

  • 1712年に誕生。幼い頃から健康があまり優れず、周囲の大人たちがどう育てるかに頭を悩ませたといわれています。
  • 将軍候補としての教育を開始。幼少期から政治や武芸の基本を学び、将来を意識し始める時期となりました。
  • 徳川吉宗が八代将軍に就任すると、家重は継嗣として位置づけられ、幕府全体の視線を集めるようになります。
  • 成人後、さまざまな公式行事に参加しながら、家臣との信頼関係を築いていきました。政策決定にも少しずつ関わるようになります。
  • 1745年、ついに将軍宣下を受ける。当初は発話の問題から苦労も多かったものの、家重ならではの配慮や人選によって幕政を運営しました。
  • 在職中、財政対策や外交上の配慮を行い、幕府の安定に力を注ぎます。父吉宗の路線を継承しながら、時には独自の判断も示しました。
  • 1760年に隠居し、後継者に家治を据えます。引退後も、周囲からは尊敬を集めました。

出身

徳川家重は1712年に江戸城で生まれたとされています。江戸城は当時、政治の中心地としての機能を持ち、厳格な武家社会の空気が漂う場所でした。その中で、将軍の子息として厳しい教育を受けながら成長し、やがて幕府の要職を担う道へと進んでいきます。

江戸は経済と文化が交わる活気ある都市で、全国から様々な人や物資が集まり、独特の発展を遂げました。そんな時代背景の中で育った家重は、幼少期から社会の動きを肌で感じ取る機会も多かったのではないかと考えられています。

趣味・特技

徳川家重の趣味や特技に関しては、あまり多くの記録が残っていません。しかし、武家の子息として育ったことから、弓術や剣術など武芸全般に一定の素養を身につけていたと考えられます。加えて、父・徳川吉宗が文武両道を重視していたこともあり、書道や和歌といった文化的素養にも触れる機会があったようです。

一方で、家重自身は病弱と伝えられており、大勢の前に出ることを好まなかったとも言われます。そのため、比較的静かな環境で楽しめるものに興味を示した可能性もあります。例えば、絵画の鑑賞や茶の湯の作法などは、武家の教養としても推奨される分野でした。

また、将軍としての職務から離れた息抜きの時間には、能や狂言といった芸能を鑑賞することもあったかもしれません。当時の大名や公家たちは、芸事を鑑賞することで文化的な交流を深めており、家重もそうした場に参加していた可能性は十分に考えられます。

以上から、徳川家重の趣味・特技は武芸だけでなく、静かに楽しめる文化や芸能にも関心を寄せていたと推測されます。その内向的な気質が、かえって多方面での学びを深めるきっかけになったのかもしれません。

友人・ライバル

徳川家重にははっきりとした「友人」や「ライバル」に関する記述は多く残されていません。しかし、将軍としての日々を支えた家臣や、微妙な立場から意見を述べた人物が存在したと考えられます。ここでは、実名が伝わっている人々をいくつか挙げてみます。

  • 田沼意次(たぬま おきつぐ): 若い頃から幕府に仕え、後に老中にまで昇進。家重期にも政治の一端を担い、斬新な発想を示したとされます。
  • 松平乗邑(まつだいら のりさと): 吉宗政権時代から活躍した老中。家重が将軍になってからも政務を支え、財政再建や諸改革に尽力しました。
  • 一橋徳川家の人々: 将軍継嗣問題などで微妙な距離感を保っていたともいわれ、将軍としての家重の判断に影響を及ぼす場面もあったようです。

名言

徳川家重の名言として語り継がれる言葉は、残念ながら史料に明確に残っていません。これは、家重がもともと口調がはっきりしなかったとされることや、病弱で人前に立つことを避ける傾向があった点などが影響しているとも考えられます。公の場で堂々と発する言葉が少なかったために、後世にまで伝わるような名言が生まれにくかったのかもしれません。

しかし、名言が残されていないからといって、家重が何も発信しなかったわけではありません。周囲との連携を通じて、時代に必要な政策を打ち出してきたことは事実です。その決定の背景には、家重なりの考えや配慮が存在したはずであり、それらが直接「言葉」として形にならなかっただけかもしれません。

名言がないからこそ、家重の姿勢や人柄は、その行動や周囲との関係性から読み取る必要があります。具体的な言葉はなくとも、静かに責務を全うした彼の姿勢こそが、一種の「無言のメッセージ」として後世に受け継がれているのではないでしょうか。

好きな食べ物

徳川家重は生姜やお酒を好んだという逸話があります。当時の記録には詳細があまり残っていませんが、生姜は体を温める効果があり、体が弱かったとされる家重にとって重宝したのではないかと推測されています。また、お酒についても、緊張を和らげるために適度に嗜んでいた可能性があります。

生姜は薬効が重視されており、風邪の予防や消化促進にも役立つ食材でした。当時は医薬品が今ほど発達していなかったため、こうした自然由来の食品が健康維持の重要な手段として注目されていたのです。家重が生姜を好んで摂取したとすれば、単なる嗜好以上に健康管理の一環だったのかもしれません。

生姜

お酒に関しては、江戸時代には酒造技術が向上し、庶民でも親しみやすい存在でしたが、武家や公家にとっては、社交の一環として重要な意味を持っていました。家重も、客人との対面時や儀式の場でお酒を振る舞うことで、コミュニケーションを円滑にしていた可能性が考えられます。

こうした好物にまつわるエピソードからは、家重の体調や人づきあいへの配慮が感じられます。健康に不安を抱えながらも、可能な範囲で楽しみや交流を大切にしていたのが、家重の人間らしい一面といえるでしょう。

さいごに 偉人の人生に学ぶこと

徳川家重の生涯を振り返ると、目立つ名言や大改革こそ少ないものの、周囲との協力や自身の体調と向き合いながら確実に幕政を支えた姿が浮かび上がります。私たちも、困難な状況にあっても自分の役割を粛々と果たすことの大切さを学ぶことができるのではないでしょうか。

彼が強く声を張り上げることが難しかったとしても、その分、実行力や周囲への心配りで存在感を示していたとも言えます。大きな言葉ではなく、地道な行動が未来を築くという教訓は、私たちの日常にも通じるものがあるのではないでしょうか。一人ひとりが黙々と責任を果たす姿勢は、歴史を大きく動かす力になり得るのだと、徳川家重の歩みは教えてくれます。