張飛の人生と大好物に学ぶ 勇猛さと人間味の狭間で

張飛翼徳

張飛(ちょうひ)は、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将で、蜀漢の劉備に仕えた五虎大将軍の一人として知られています。その勇猛さと豪快な性格で名を馳せましたが、同時に短気で粗暴な一面も持ち合わせていました。彼の生涯を振り返ることで、現代に生きる私たちも多くの教訓を得ることができます。

何をした人

張飛は、劉備、関羽とともに「桃園の誓い」を結び、義兄弟として数々の戦場で活躍しました。特に「長坂の戦い」では、劉備軍の殿(しんがり)を務め、敵軍を一喝して追撃を阻止した逸話が有名です。

この際、張飛は「我こそは燕人張飛である! 俺と勝負する気はないのかっ!!」と叫び、敵軍を震え上がらせました。また、彼の武勇は「万夫不当」と称され、一人で一万の兵に匹敵すると評価されていました。しかし、その一方で、酒癖の悪さや短気な性格が災いし、部下への厳しい罰則や暴力的な行動が目立ちました。これらの性格が最終的には彼の命を縮める結果となりました。

人生のターニングポイント 7つ

  1. 劉備との出会い(184年頃):黄巾の乱の際、劉備が義勇兵を募っていたとき、張飛は関羽とともにこれに応じました。この出会いが、彼の人生の大きな転機となり、以後、劉備の腹心として活躍することになります。
  2. 別部司馬への任命(190年頃):劉備が公孫瓚に取り立てられ、平原相となった際、張飛は別部司馬に任命され、一軍の指揮を執る将となりました。これにより、彼は正式に軍の指揮官としての地位を確立しました。
  3. 下邳での失態(194年):劉備が袁術と戦っている間、下邳の留守を任されていた張飛は、呂布の攻撃を受け、劉備の妻子を捕虜にされる失態を犯しました。この事件は、彼の酒癖の悪さと短気な性格が原因とされ、以後の彼の行動に大きな影響を与えました。
  4. 長坂の戦いでの活躍(208年):劉備の撤退を援護するため、張飛は長坂橋で敵軍を一喝し、追撃を阻止しました。この勇敢な行動により、劉備軍は危機を脱し、張飛の名声はさらに高まりました。
  5. 益州攻略への参加(212年):劉備が益州を攻略する際、張飛は諸葛亮や趙雲らとともに参戦し、郡県を平定する功績を上げました。特に、巴郡太守の厳顔を生け捕りにし、その義心に感じ入って釈放した逸話は有名です。
  6. 漢中攻略戦への従軍(217年):劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に参加しましたが、目立った戦果を挙げることはできませんでした。しかし、この戦いを通じて、彼の軍事的経験はさらに深まりました。
  7. 最期(221年):劉備の呉討伐に際し、出陣準備中に部下の張達・范彊に暗殺されました。この悲劇的な結末は、彼の短気で粗暴な性格が原因とされています。

出身 幽州涿郡

張飛は、幽州涿郡(現在の河北省)の出身で、劉備と同郷でした。生年は不詳とされていますが、彼の出身地である涿郡は、当時、文化と商業の中心地として栄えていました。

この地で育った張飛は、若い頃から武芸に励み、その才能を開花させました。また、彼の家族や幼少期についての詳細な記録は残されていません。

身長・体重 蛇矛(だぼう)を自在に扱う怪力

正確な身長・体重は記録に残っていませんが、小説『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)で、豹のような頭、環状の目、燕のような顎、虎のような髭を持ち、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のようだと描写されています。

このような描写から、張飛は非常に屈強で威圧感のある人物として伝えられています。また、彼の武器である蛇矛(だぼう)も非常に大きく重いものであり、それを自在に操る彼の怪力は、多くの逸話として語り継がれています。

趣味・特技 書道

張飛は武芸に秀でており、特に長槍の扱いに長けていたとされています。彼の愛用した武器である「蛇矛(だぼう)」は、長さや重量から扱いが難しいとされますが、張飛はこれを自在に操り、多くの戦場でその武勇を示しました。

彼は武人としての一面だけでなく、文化的な才能も持ち合わせていました。特に書道においては、その腕前が高く評価されており、「張飛立馬銘」という石碑にその筆跡が残されていると伝えられています。この石碑は、彼が戦場で馬上から揮毫したものとされ、その力強い筆致は、彼の豪放磊落な性格を如実に表しています。

友人・ライバル 桃園の誓い

張飛の最も親しい友人は、義兄弟の劉備と関羽でした。彼らは「桃園の誓い」を結び、生死を共にする固い絆で結ばれていました。

特に関羽とは、戦場で互いに背中を預け合う信頼関係を築き、多くの戦いで共闘しました。一方、敵対者としては、呂布や曹操軍の将軍たちが挙げられます。特に呂布とは、下邳での戦いで対峙し、その武勇を互いに認め合う関係にありました。

また、長坂の戦いでは、張飛は単騎で曹操軍の追撃を阻止し、その勇猛さを示しました。このように、張飛は多くの友人や敵と関わり、その生涯を通じて多くの人々に影響を与えました。

名言「燕人張翼徳在此。誰敢来決死戦。」

張飛の名言として、「我こそは燕人張飛である! 俺と勝負する気はないのかっ!!」があります。この言葉は、長坂橋での戦いで、劉備軍の撤退を援護する際、張飛が単騎で橋を守り、追撃してくる曹操軍に対して発したものとされています。

この一喝により、敵軍は張飛の迫力に圧倒され、一時的に追撃を止めたと伝えられています。この逸話は、張飛の勇猛さと威圧感を象徴するものとして、後世に語り継がれています。

好きな食べ物

張飛は酒を好み、酒に合う料理を嗜んでいたと伝えられています。特に、濃い味付けの肉料理や塩辛い肴を好んだとされています。しかし、彼の酒好きは度を越すこともあり、酒に酔って部下に暴力を振るうこともあったと伝えられています。このような行動が、最終的には彼の命を縮める結果となりました。

中国のお酒

さいごに 彼の人生に学ぶこと

張飛の生涯は、勇猛さと忠義に満ちていましたが、短気で粗暴な性格が災いし、最期は部下に暗殺されるという悲劇的な結末を迎えました。このことから、リーダーシップにおいては、部下への思いやりや冷静さが重要であることを学ぶことができます。また、信念を持って行動することの大切さも、彼の生涯から感じ取ることができます。さらに、彼の芸術的才能や多才さは、武人としてだけでなく、人間としての幅広い魅力を示しています。張飛の生涯を振り返ることで、私たちは多くの教訓を得ることができるでしょう。